《景清》 娘は おひさま
松門(しょうもん)独り閉じて 年月を送り
みづから 清光を見ざれば 時の移るをも わきまえず
暗々たる 庵室にいたづらに眠り
衣かんたんに与へざれば 膚(はだえ)は げうこつと 衰へたり
とても世を背くとならば墨にこそ (世をすねるなら出家となるべきを)
染むべき袖のあさ(麻・)ましや
古びた藁屋から美声が聞こえる。
武張った物言いのあとは憐れみを乞う調子。これが行方を尋ねる父「景清」の述懐だとは、その時は思いもよらなかった。
父は、尾張熱田の遊女との間に私をもうけ、「女子(にょし)ならばなにの用に立つべき」と、「鎌倉亀が江が谷(やつ)」の長に私を預け、それっきり。
そんな父だが、私は、景清が「日向の国宮崎」に流されて存命であるとの噂に、会いたさ一心で長い道程をやって来た。私の名は人丸(ひとまる)。
相模の国を立ち出でて 相模の国を立ち出でて
誰に行方をとほとふみ(問・遠江)
げに遠き江に旅舟の みかは(見・三河)に渡す八橋の
雲居の都いつかさて 仮寝の夢に馴れて見ん 仮寝の夢に馴れて見ん
従者が声の主に「景清」の行方を尋ねると、「盲目なれば見ることなし」とつっけんどんな言葉が返ってきた。しかたなく私たちは藁屋を立ち去り、里人に事情を聞く。
「のうその盲目の乞食こそ おん尋ね候ふ景清候よ」。悲しみが吹き上がる。平家の侍大将だった人が、そこまで落ちぶれるとは。
父は「平家語り」で「日向の勾当」と呼ばれているそうだ。里人は私に同情し、父を呼び出してくれると言う。
「悪七兵衛景清のわたり候ふか」
忘れたかった名で呼ばれ、気持ちを高ぶらせる父。でもやがて短慮を詫びると、里人がとりなしての対面。
うれしいはずなのに、父の無情を恨む言葉が先にたつ。はるばる来たのに名のってもくれない。親の慈悲も子どもによって違うのか。
父は「おん身は花の姿にて」、乞食の親では名のらない方がためになると私を諭す。
再会の時が、別れの時。
私は、父が高名をあげた「八島の合戦」の有様を語ってほしいと所望する。父の「花の姿」を胸に刻んで私は生きて行こう。
父は承諾してくれるが、語り出す前に私の帰国を従者に頼んでいる。親らしい心遣いがなぜか切ない。
何某(拙者)は平家の侍 悪七兵衛景清となのりかけ 名のりかけ
手取りにせんとて追うて行く 三保の谷が着たりける
兜の「しころ」を取り外し取り外し 二三度逃げ延げ延びぬ
昔語りは闊達に終えたが、父は衰え余命もないと告げ、死後の供養を私に頼む。もちろん生涯弔います。私はあなたの娘です。
さらばよ留まる行くぞとの ただひと声を聞き残す
これぞ親子の形見なる これぞ親子の形見なる
謡曲「景清」は、ギリシア悲劇の「コローノスのオイディプス」に例えられます(画像はアンチゴネー)。
頼朝の顔が見たくないと自分で両眼を刳り抜いたという景清。
英雄の末路を芸能者とし、舞台を光あふれる古代の神々の国に設定するなど、多くの景清伝説をもとにしたとしても、第一級の文学作品であることは確か。
作者は不明です。勝手なアレンジ、ごめんなさい。
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